30、子供たちとの北海道旅行
平成**年夏休み、私は自分の給料から北海道旅行に子ども達を連れて行きました。
***市に来てから楽しい家族の思い出の無かった子どもたちに良い思い出をつくってやりたかったのです。
元夫には北海道でのレストランでの食事代金のみ元夫のクレジットカードで払わせてもらいました。
そうでないと子どもたちは私のお金で北海道旅行に来ていることがわかっているので、お金のことをとても心配してくれるのです。
安心もさせたかったし、父親としてこれくらいのことはしてほしいと思い、使いました。
31、ギリギリの生活費
元夫からは***市にきてから一度もボーナスをもらっていません。
何かあったときのためにともらっていたクレジットカードでしたが、私はボーナスもくれないのなら、と足りない分、食費、子どもの急な出費は元夫のクリジットカードで支払いをすることにしました。
3年ほど前から家計簿をPCでつけており、光熱費を除いても毎月21万ほどは支出があることを元夫は知っているはずです。
毎月の15万では足りないのです。
教育費もさることながら、息子の病気は完治したとはいえ、100%の安心はできないので免疫力をつけるため、元夫も認める栄養ドリンクも毎月買って飲ませています。
年々子どもたちの体は大きくなり、昨年のものは着ることはできません、また女の子と男の子の兄弟なのでおさがりも無理です。
***市に来てからは、休日は義父の手伝いで殆ど不在のため、子どもたちを連れて歩くのは私です。
ですからレジャー費とされる部分も全て15万の生活費にかかってきました。
扶養枠を外れてフルタイムで働くようになり、私は自分と子どもたちに何か共有できる幸せがほしく、自分の給料を貯め、平成**年の夏休みと平成**年夏休み子どもたちを連れて北海道旅行に行きました。
子どもたちは久しぶりに本当に幸せそうでしたが、宿泊先のホテルのファミリーにはお父さん連れのファミリーばかりです。
母子家庭ではないのに母子家庭のような私たちに、胸が痛むような場面が多々あったことは事実でした。
正直、私も大変な勇気がいった旅行だったのです。
その翌月、元夫は一人で北海道に行きました。
私も子どもたちも、ただただショックでした。
私たちとは行かなかったのに。。と
32、元夫の両親が私の自宅への突然の訪問
平成**年 *月だったかと思いますが、主人の両親が自宅に来ました。
夫婦間がおかしいことを心配して来た様子でしたが、元夫の両親の口から出る言葉はお金のことばかりでした。
話の内容が結婚当初から主人には多額の生活費の援助、***市に引越しした際にマンションを賃貸にするためのリフォーム料などなど私は初めてて聞くことや、内容さえわからないお金のことばかりよくわからないのですが、なにやらでした。
私は第一声「お父さんお母さんにはご心配をかけていることをすみません。
ただ、今、おっしゃっていることが私の知らないことばかりなんです。
それに何故、お金のお話しかこの状態で出てこないのですか?」
と冷静に言うと、お父さんもお母さんも無言でした。
どうしてこんな風になったのかとか気持ちなどは一切聞かないのです。
主人は2階の部屋から出てこようとしません。
お父さんが息子の翔太に「お父さんを呼んできなさい」といい、やっと階下に降りてきました。動揺し、冷静さを失った主人は「こいつと別れたらいいんやろ!」と取り乱しています。
そんな息子を見て義父は少し驚いた様子で
「お前は!なんや!その口は!子どもらのためにちゃんとせい!」
と主人を怒り始めました。
庭で心配そうにしている子どもたちに見せたくない、聞かせたくなかった私は娘を丁度、眼科につれていかなくてはならなかったので、それを口実に娘をつれて出ました。
息子の翔太は義母が連れて出てくれました。
その後どのような話があったのかはわかりませんが、主人の態度はそれ以降も何も変わりませんでした。
後でわかるのですが、むしろ、自分の立場を守るため、自分の両親に私のことでうそをつき始めるようになっていました。
例えば、私が元夫の食事を作らない、娘が幼稚園の頃、盲腸で元夫が入院したことがあったのですが、一度も私は見舞いにこなかったなどです。
その入院時は元夫は毎日差し入れと見舞いに行く私に、
「おまえのせいで盲腸になった!」
など相部屋で他の方たちに恥ずかしいやら元夫の態度が怖いやらで、、見舞いに行くことが辛くて辛くて泣きながらいつも、病院から帰っていたのを覚えています。
そして私には義母は毎日来てくれているとウソを付いていたのです。
義母に電話で「毎日お見舞いに来ていただいてありがとうございます。」と様子を報告するために電話した際、
「私は最初に日だけしかいってないよ。忙しくて、そんなん毎日いかれへんわ」
と言われました。
また、義父母が自宅に来た際に、信仰していたというよりは心のよりどころとしていた、先祖供養の霊法会を義父母から「あんたがこんなことをしてるからうまくいかない」と言われやめさせられた事。
息子が病気になってから主人も一緒に信仰していたことを一言も義父母には言ってくれず、むしろ一緒になってやめろと仏具等を処分させられたこともございました。
私にとっては宗教ではなく、心のよりどころでもあり、神仏に捧げる舞踏として日本舞踊も霊法会の中で習っていましたので、自分の楽しみ、友人を取り上げられることになってしまって自分がやりたいことをあきらめるということを、これから何度強いられるのか、また 主人も率先して霊法会でご奉仕をしたり皆の前で話をしたりと一緒にやっていたことを何故、自分の両親に言わないのか。。。。
全く信用できない、これも私が無理やりさせていたと言われないためにも、仏具を全て返してやめるしかなかったのです。
それでも、私が無理やり元夫に私が行っていた事をやらせていたと、元夫は、親族等に言っていると思います。
また、その同月7月に義父が古希の祝いをすると、小料理屋で会がありました。
私にとっては、私の両親に対する扱いや前述の自宅に義両親が来たときお金のことしか言わない義両親に対して心理的にかなり不信感を感じていましたし、そのときに初めて主人に10年以上も前から生活費と援助していたことを知ることになり親類、身内などという関係とは程遠い感情を抱き始めていましたので娘にも
「お母さん出席できるの?」と問われるほど正直、出席することは苦痛でした。
それでも、子どもたちのために出席しました。また、義父に対して、この家を買ってもらったことに対しては、今、どのような感情であっても恩を示さなくてはいけないと思ったからです。
同じく、平成**年*月、一言もお互いに言葉を交わさない、私の食事を食べない状態が続いていた中、偶然*******で元夫と私と子どもたちが偶然出会うということがありました。
その日、初めて家族で外食し、元夫と差しさわりの無い言葉も交わしました。
子どもたちのために自然の流れでやり直す方向に向くのか
そして、子どもたちのために、やはり自分はないものと思い、もう一度元夫とやり直してみることを 考えなくてはならないのか、迷っていた私でした。
数週間、元夫と会話し、元夫も私の作ったものを食べていました。
33、元夫の引きこもりの始まり。
しかし、
平成**年に行った北海道が子どもたちは天国だったと言う言葉を励みに私は毎年、自分の給料で北海道に連れて行ってやりたく その夏休みも予約していたのです。
元夫に 夏休み、私の給料で北海道にまた子ども達を連れて行きたいのだけど、一緒にいけるかききました。
元夫は、休みが取れないといいましたが、「いいじゃないか、行っておいで」と行ったので私はまた子ども達をつれて母子家庭のように旅行にいきました・
すると北海道に行く日、元夫は休みの日でもあるにもかかわらず
大きな荷物を車に運んでもくれないところか、自分の部屋から出てこないのです。
おかしいなとは思いましたがまさか、元夫の了承を得ていること、私のお給料で行くのだし怒る理由はないはず、きっと機嫌が悪いだけだろうと思いながら。出発しました。
そして北海道から帰ってきた日から元夫はまた、私の食事を食べない、話さない、会社から戻っても玄関横すぐにある自分の部屋に引きこもり、洗面所に手も洗いに出ない子どもとも話をしようとしないと異常な態度になっていきました。
結婚して5年くらいたち始めたころから、独り言で「ぼけ、だぼ」だのという 良くない言葉を独り言でいうことはよくありましたが、ひどい時は寝るまで部屋の中で言い続けていたり、壁をたたいたり、トイレなどいくとドアが壊れるほどしめたりと暴れるようになっていきました。
そして、子どもたちがいても 「だぼ!殺すぞ!やるんか!」などという恐ろしい言葉を、時には風呂場でボクシングのジャブをするような形で何かのりうつっているような言動を取り続けるようになりました。完全に精神的におかしいのです。
私は子どもたちが心配しないよう、平静をよそおっていましたが子どもたちは
寝ていても下の部屋から聞こえる、怒鳴り声にただならぬ状態に不安をいだきはじめていました。
直接に私が元夫に注意をしたら、何をしでかすかわからないし、私も怖く近寄れませんでした。
34、元夫の精神的異常性。
平成**年から母親の作ったものを全く食べず、毎日カップ麺やコンビニ弁当をを子どもたちが見ていても平気で食べますし、父親の口から出る恐ろしい一人言や動きに子どもたちへの影響を私は何とかしなくてはと思い悩んでいました。
同年夏休み、娘の佳子と二人で車で出かけていた時、娘が急に泣き出しました。
「お父さんがお母さんを殺しそうで怖い」と
やはりあの大声では普段、自分の部屋で音楽を聴いている娘にも聞こえていたのです。
後で聞くと、息子も知っていたと言っておりました。
私はすぐに、娘と主人の両親に会いに行き、事情を話しました。
全く話になりませんでした。
「敏郎がそんなこというわけがない。」
「女のあんたががまんしたらいいんや、あんたはお嬢さん育ちやから我慢がたりひんのちゃうん」など娘の前でも散々で
娘はショックでその部屋から泣いて飛び出し、2時間程私と義父母が話している間、ずっと庭先で泣いていました。
私は「お父さんの言うことしか聴かない人です。神経科に行くようにいって下さい。
でないと元夫が救われません」泣いて訴えましたが無駄でした。
その上、主人が私が食事を作らないし、私の作った食事には毒が入ってるかもしれないから食べれない。
北海道に年に3回も行っている。
盲腸になって入院した時も一度も見舞いにこなかった、他にも色々聞いていると言うのです。全てウソです。
35、元夫の母の私の母に対する対応
そして平成**年の元旦の前の夜、私の兄から電話があり
「おかんが様子がおかしい」と電話があり、私は元旦の朝、母の**市まで一人で急いで言ったのです。元旦でしたから、いくら主人と話をしていなくても元夫の実家には挨拶に行くつもりでしたので、**市に向かう前にわざわざ、早朝元夫の実家により事情を説明して、今から**に行きます。と挨拶して行ったにもかかわらず、義母は「あんた、正月もこんかったやろ」と言うのです。
私は驚き
私:「朝一番に事情も説明しにご挨拶にも伺ったじゃないですか?
実の母が危ないのに行ってはいけなかったんですか?」
というと
義母:「でも、死んでへんやろ」
というのです。
私はその時初めて声を荒げ
私:「死んでたら良かったんですか!」と怒鳴ってしまいました。
多恵子さんには言えない様なことも私にはいつもイビルようなことを言う義母です。
その上に、その頃、北海道旅行にも連れて行くという目標もあり、本当に一生懸命にがんばって働いていた私の仕事を、車を使って仕事をしていたのですが、
「ガソリンを撒き散らしとる、ガソリン代もはらいよれへん」と元夫が言っていたそうです。
事実は違います。会社からガソリン代と車の維持費を込んだ1kmあたり40円の支払いとガソリンいつも自分のクレジットカードで払っていました。
たった一度、北海道に行った際、レンタカーに給油したガソリン代を元夫のクレジットカードで支払った記憶はありましたが。
「否定」、「否定」、「否定」
私は毎日、一生懸命生きていると、子どもたちに暗い家庭をまのあたりにさせたくないばかりに父親になり母になり、元夫の悪口も子どもたちに一言も言うことも無く明るい母親をしている私に、この人達は元夫は、なんなのか。。。 本当の悪嫁になれば気がすむのか。ついていけません。
なぜ自分の両親に、こんなにもして自分の家族を踏み台にしてでも自分の立場を守らなければならないのでしょうか。私が元夫に何をしたというのか。。。。
全く元夫がわかりませんし、信用できません。
この件から、元夫の両親は私を目の敵にしだしました。
息子を落とし入れるうそつきな女。
立派な家を与えてやり、生活費を援助してやり続け、マンションまで買わせた女。
義母は息子に「お父さんは**で一番偉いんやで」と言ったらしいのです。
**支店の支店長という意味です。
それに対して息子は「それがどうしたんや」と心で思ったというのです。
正しい価値観を持っていてくれて良かった、そう思いました。
そして桂家の教育ではとんでもない価値観を子どもたちに植え付けてしまうかもしれない。
36、離婚への決意
離婚を本気で考え始めました。
平成**年**月**日1回目の手紙を渡す。返事なし
平成**年**月**日2回目の手紙を渡す。返事なし
平成**年**月初め朝方4時頃、元夫が痛い痛いと階下の自分の部屋でうなっている。
しばらく続くので「救急車をよぼうか?」と聞くと「呼んでくれ」という
救急車を呼ぶ。
記入など手続きを一切私がする。
車のことでなじられるのが嫌で、転職をしたばかりだった私は、入院などになったら新しい職場に遅れていくこともできないし朝の子どもたちの用意(弁当など)もある、口もきかない元夫の面倒をどうやってみよう、また義父母に私のせいのようにも言われるだろうと暗く困ったと思案していました。
元夫が朝5時くらいに救急車で運ばれた後、私は インターネットで元夫の症状を調べると結石の様子。
原因は主に夜寝る前に塩分の濃いものを取り過ぎるとなりやすいとのこと。
その頃元夫は何ヶ月も私が、食事を用意してあるにもかかわらずインスタントラーメンかカップ麺かコンビニ弁当しか食べていなかったのです。
そしてその情報には、救急車で運ばれるほど痛くても、病院につく頃にはけろっと治っているものだと書かれていた通り、8時過ぎ、元夫から電話があり、***市民病院にいる迎えに来いというのです。
元夫の実家の方が近いのだし、ご両親に頼むか、タクシーで帰ってくれば良いのにと思う気持ちと、試用期間一週間は遅刻欠勤はダメと言われていた新しいパート先を心の中であきらめていました。
一度義父が入院していた時に、お見舞いに一度だけ行ったことのあるその病院の場所を覚えていなかった私はネットで調べ迎えに行きました。
正面玄関は時間も早く開いていませんし元夫がどこにいるかもわかりません。
元夫に電話すると「ここや」と言わんばかりに車の後方にいました。
そして後ろの席に乗り込みなり、痛みもないはずなのに後ろにおいてある私の荷物を横柄に端に押しやり、ありがとうの一言もありませんでした。
いつからこんなに女性や弱いものを横柄な態度で使うようになったのだろうと、不愉快でたまりませんでした。
平成**年元旦私は、新しい職場になる紀伊国屋の研修のために働いていました。
子どもと主人は義父宅に行きました。
私と主人の関係、私と義父母との関係は子どもたちには関係ないと考えているので、おじいちゃんおばあちゃん、そして親戚には新年の挨拶はさせたかったのです。
平成**年*月*日、夜 トイレに行く為に階下に降りようとした時、私が元夫のために作っておいてあるカレイの煮付けとかす汁、納豆、煮物に「ありがと、ありがと、死ね!くたばれぼけ!」と叫んでいる声が聞こえました。
なんどきいても胸をえぐらるような気持ちになります。
平成**年*月*日 離婚時の約束を記載した公正証書原案添えて3回目の手紙を出す
平成**年*月**日朝起きたら、元夫からの離婚に合意をするような手紙がある。
子どもたちが半分は韓国人であることを義父に話してみてくれるよう書いた手紙の後の返事が離婚であることは、韓国人であるなど当然いえないことであると、元夫がそのような価値観を持ち、私たちのルーツを恥ずかしいものと伝えているものと感じました。
家族のために努力してきたというのならば、 当たり前のことを話すべき。
元夫は私と子どもたちよりも、世間体と差別心を持つ自分の両親を正しいと、元夫らに沿って生きて行くと決断したのです。
離婚が成立するかと思ったがこの先1年以上も私は闘うことになったのです。
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