7、結婚式後、新婚旅行後の出来事。(親族との不和)

新婚旅行には式の次の日にハワイへ出発しました。離婚体験記
結婚して一番幸せな時で元夫は、
当初飛行機に乗るのが怖いと言っていましたが、
帰りの飛行場では「帰りたくない」と涙くんでいました。
新婚旅行から帰ってマンションについた途端、
元夫の家族全員とお兄さんの婚約者が来るというではありませんか。
正直、式前からの準備、新婚旅行でくたくただったのですが、何も今日でなくてもと思いましたが 快く迎えました。
食べ物は買ってきてくれましたが、テーブルに並べる準備、後片付け、全くしてくれず帰ってから元夫と二人で後片付けなど大変な思いをしました。
また、義母などは、その席で元夫の兄の婚約者がいることの方を気を使い、
「私を結婚するまで顔も良く見たこと無かった」とか疲れているのは私なのに「しんちゃん(お兄さんの婚約者)コレ食べあれ食べなさいとお皿にとってあげている始末です。
お兄さんの婚約者は地元の**市の人で、元夫のお父さんは私は「どこのうまの骨かわからない」でお兄さんの婚約者は「わしが気に入った嫁さん」とそれからも幾度となく言われることになるのです。
私の中に、この人達は私を受け入れていない、嫁いびりにあうかもしれない、これで私がいくら帰化しているとはいえ韓国人とわかったらどういうんだろうと、親類になることへの不安は日増しに大きくなり
元夫の両親の言動が原因で主人と喧嘩が度々重なっていくようになります・
しかしながら、元夫は元夫の家族の性格はあきらめており、元夫の母親が姑や夫からいじめられていたように嫁は多少は、そんなものだ、大した問題ではないと思っていることがわかってきました。
お兄さんは私たちが結婚した数ヵ月後に結婚し、主人のご両親の家の離れで同居することになりました。
義母からお兄さんの結婚式でのブーケを作るように言われました。
作りました。
お兄さんのお嫁さんの荷入れの日、義母が嫁入り道具で持ってきた、たんすや靴箱を足で蹴って「なんやのこれ」と私の前で言うのです。びっくりしました。
田舎はこうやるんだろうかと。。。。
新婚旅行から帰った日、疲れているからとはなれから出てこようとしないお嫁さん(以下、多恵子さん)に対して、食事も作り、はなれまで持っていってあげている義母の姿をみて 私たちが新婚旅行から帰ってきたときの違いに苦い気持ちになりました。
離婚体験記 同居の嫁だから仕方がないと、割り切ろうとしていた私に義母は
「あんたの方がきつそうに見えるけど、きついのはあっちやのになあ。あんたは損やなあ」
「敏郎が**に会社辞めて帰ってきて、やっとどんな子かわかってきたところで結婚してしまった」
義父からは「わしは嫁は一人しかいらん」
私たちの結婚式の際に義父がしたスピーチがお上手だったと皆さん好評でしたと伝えた時には「ええことばっかり言うな!」
と、何か私に失礼があったり、やりとりがあって言われるのではなく、純粋に好かれたい仲良くしたいという気持ちの中で突然言われるので、次第に元夫の実家に行く日は
元夫の実家が数キロ前になると動悸がして怖くて不安でたまりませんでした。

8、第1子佳子の誕生~義兄の子供との明らかな区別

結婚してからすぐ私は**の貿易会社で派遣社員としてフルタイムで働いていました。
元夫が元夫のお給料を教えたがらないことに不都合はまだ感じていませんでした。

私の給料は、二人の娯楽費用にあてたりしていました。離婚体験記結婚して2年目に第一子の佳子が生まれました。(平成*年**月)
主人は「もうできたの、もう少し二人でいたかった」といいました。
一ヵ月後、お兄さんの所にも男の子が生まれました。
私たちにとっては初めての子どもです。
誰もが祝福してくれて当然とさえ思っていましたし、日本人の元夫に嫁いだのですから日本式にお宮参りをしていただけるものと、元夫の両親からの連絡を待っていました。
韓国にも似たようなしきたりはありますが、内緒で結婚していることもありまたし、男方にあわせるということで私の両親は、いつお宮参りに行ってきましたと私から、連絡があるのか待っていた様子でした。
それどころか、なかなか佳子を見せに連れて来いとの声かけもありませんでした。
三ヶ月ほどして初めて佳子を元夫の実家に連れて行った日、
義父は佳子を抱こうともしませんが義兄の子どもを抱いて離しません。
義母の方も義兄の子どもを抱きたいのですが兄嫁に気を使っている様子でした。
兄嫁は、育児を手伝われることに抵抗があり、私たちなど、来客があるときくらいにしかはなれから赤ん坊を連れて出てこないので、私たちはそのために呼ばれたのだとわかりました。
そして佳子と私だけ部屋に取り残されている時に、偶然に見つけてしまったのです。
一ヶ月後に生まれているお兄さんの子どものお宮参りの立派な写真を。。。本当にショックでした。
私たちにとって初めての子です。
しかも、多恵子さんは正装して着物で多恵子さんのご両親も呼ばれて、りっぱに写真屋でとってもらっていたのです。
私の両親が気にくわない上に女の子ということで
自分の息子の第一子、しかも一ヶ月も変わらないのに。。。本当に辛かったです。
それからも 私たちの子は、女の子であるということで、体が小さい、食が細い等々、聞くに耐えない言葉が元夫の実家に行くたびに無神経に続きました。

9、元夫の頼りなさ

当然、マンションに戻れば私は元夫に怒りをぶつけてしまいました。
主人は幼い頃から次男のせいか、ほったらかしで育てられており、田舎で言うと次男は食い逃げとまでいい、無用の存在。
私と同年の元夫がそんな育てられ方をしていたなんて信じられませんでした。
元夫の母親が、私に「敏郎はすぐにひがむし、物事を悪く取る」と言ったことがあります。
その言葉を聞いたときは、信じられませんでしたが、これから、元夫の生育期が私たちの関係にまで及ぶとはその時はまだ思いもしませんでした。

もう絶対、うちの子が韓国人の血が半分入っていることなんて、言えない。。。離婚体験記
絶望的でした。

私の中には、私にはどうしようもできない、また責められるべきでもなく恥ずべきことでもないことを、卑下しなければならないような心境にならざる終えない結婚生活に不安と不満が増幅していきました。
また、それに対して頼りない対応の元夫に対しても悲しみと怒りと不安でいっぱいでした。
いずれはきちんと子どもたちに伝えていきたい、あなたたちは、
ハーフではなくダブルなんだと尊厳を両国の架け橋になるべく考えを伝えていきたかったから、またできて当然だと私は思っていました。

10、第2子翔太の誕生(冷め切った夫、2重人格が明らかに。)

平成8年9月8日長男翔太が産まれました。

大変な安産でしたが分娩室で看護婦さんが、主人に「もう産まれますよ!
奥さんの手を握ってあげてください」というと元夫は左手をしぶしぶ出しました。
私は元夫の手を握りました。
握り返してこない元夫の顔を見ると、冷たくしらけた目で私を見ています。。。

この時、初めて元夫の心の私に対する闇を知り、分娩台にいるにもかかわらず私は、怖くなってとっさに「待合室にいる佳子のところに行ってあげて」と元夫の手を離しました。
看護婦さんが「いいの?あなた、強いわね」という声と生まれてくるわが子への思い、待合室で不安な気持ちで待っているはずの佳子のこと、私に浴びせた元夫の目と感情の全く入っていない冷たい手の感触が頭を回る中で無事、翔太は産まれました。

その夜、私は自宅の元夫に電話で泣きながら「どうしてあんな目をしていたのか。
あの無表情な手はなんだったのか」問うていました。
元夫は、答えませんでした。
元夫の二重人格に気付き始めた私は不安と悲しみと産後のひどい悪寒でその夜を過ごしたことを覚えています。離婚体験記
離婚体験記
長女の佳子がいつでも長く病室にいれる様にと、個人産婦人科病院でもあり個室がとりやすかったこと、これが最後の出産になるだろうと思っていたので、元夫に個室で入院しても良いか、少し割高でしたが事前に聞いていました。元夫は了承してくれました
結局は相部屋よりも1万少しの差額で収まったので長女の真央も長い時間病室にいても周りの方に気遣いも無かったでしたし良かったと思っていました。
後に、このことも、義母と元夫から個室で入院したことを贅沢をしたと責められることになるとは思いませんでした。
了承を得ても、後で非難される、何事も了承は了承ではないことをこの件から、知っていくことになります

**県**市の実家で私と佳子と翔太は3週間程お世話になりました。
元夫からは殆ど連絡もたずねてくることもありませんでした。



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